歴史探訪 菟田野と近郊
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歴史探訪 菟田野と近郊

 グランソール奈良から国道166号線を道なりに東へ5km程の所、奈良県吉野郡東吉野村小川鷲家口には150年前、明治維新の5年前その先駆けとなって命を絶った若者たちが眠る。

<グランソール奈良から166号線を道なりに東へ紀伊の峰々を見てほぼ3㎞地点には天誅組150年法要を知らせていた>

尊王攘夷の旗のもと新しい日本を夢見て決起した若者たちであった。世に言う「天誅組」である。もとは動乱の中に身を置いた諸藩の浪士たちである。坂本龍馬に先んじて四国・高知、土佐藩を脱藩した中村虎太郎はこの地、鷲家に吉村虎太郎として眠るが資料では寅太郎との記載が多い。9月27日は命日である。享年27歳。

『吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ』

の辞世を残して散った。虎太郎は土佐において武市半平太によって結成された土佐勤皇党に身を置き攘夷へと傾倒していった。その間、長州へ赴き久坂玄瑞に接している。碑に向かい目を閉じて手を合わせるとそうは遠くない維新に先駆けて新しい日本の夜明けを夢見て若い命を散らした義士たちの姿が浮かぶ。

<上記横断幕から1㎞、国道166号線沿いに「天誅義士墓所」碑を見る>

<天誅義士墓所である。それぞれ義士たちと共に激戦に倒れた人たちが眠る>

<標識を辿り、東吉野村役場方面へ入ると約1㎞、東吉野村天誅組顕彰会案内の天誅組終焉の地の碑を見る>

<天誅組終焉の地 1987年(昭和62年)建立>

<高見川にかかる橋を入るとすぐ吉村虎太郎原瘞処であると言われる>

天誅組についてはインターネット検索で多くの資料に触れる、詳細は資料に詳しいので割愛するが、奈良出身の女流映画監督である河瀬直美氏(代表作の一つに2007年の「殯の森」がある)は当地を訪れ、文藝春秋2013年9月号に「一心公平無私」と題するエッセイを残している。以下、その一部抜粋であるが、当時の若者たちの心情に思いを馳せている。

『奈良県の東吉野村には、今から一五〇年前に維新のさきがけとなってその尊い命を失った志士たちのお墓がたくさんある。歴史上は大変マイナーな存在の彼らである。坂本龍馬や西郷隆盛などの名前は小学生でも知っているだろうが、吉村寅太郎の名を知る者はほとんどいないのではないだろうか? かの人物は土佐の出身だそうだが、庄屋の出で龍馬よりも先に脱藩している。取材をした先の吉野村教育長の話によると、寅太郎は庄屋の家に生まれ、その土地に宿る神を崇拝し、天皇を中心に民の幸せを守ってこその政治であるとの考えを持ったのではないかと言う。当時幕府は権力を誇示できず、人々は飢餓に苦しみ、国家は不安定な状態が続いていた。寅太郎はそんな現状を嘆き、温故知新、古きに学び新しき時代を目指し、討幕にむけて自らの命を捧げたのではないだろうかと推察されていた。たった一五〇年前に自らの命を捧げてまでも創りたかった世の中がある。しかし志半ばのわずか二十七歳でその命は絶たれてしまうわけだ。しかもその最期は壮絶である。武士として切腹を望んだにもかかわらず、鉄砲で乱射されて果てた命。最期の言葉は「残念無念」だということから、その地には「残念サン」の名で祀られ今にいたる。彼ら天誅粗の逆賊としての汚名は明治になって晴らされるのだが、その名は広く日本国民に知られてはいない。今の日本のあるべきカタチの「さきがけ」ともいうべき彼らの志が今一五〇年の時を経て大和の国、奈良県から立ちあがろうとしている。』

若い命を賭してまで新しい国を作るべく自ら信ずる国家を思い、何が悪で何が善なのか、少なくとも今の時代の日本人が我が国の今を未来を考え行動しているのだろうかと問うている。

天誅組を語る時、吉村虎太郎に比してその先駆けとなった真木和泉守保臣を思うのは筆者のみではないものと思う。真木和泉は九州、筑後の国にある水天宮(福岡県久留米市瀬下町)の神職の家に生まれ、祠官であるが尊王攘夷を唱え、安政の大獄で吉田松陰を失った後、その後の尊王攘夷派を指導した。因みに久留米水天宮は全国にある水天宮の総本宮で久留米市を流れる筑後川沿いにあり、すぐ近くには早咲きの梅の名所として知られる梅林寺(久留米藩主有馬家の菩提寺)、ブリジストン工場そして久留米大学病院にも近い。川向うは広い河川敷を挟んで長門石、夏に催される筑後川花火大会はその歴史を偲ばせる。

真木和泉らが立てた、企てた、攘夷親征(天皇自らが戦争すること)計画により、三条実美ら攘夷派の公卿たちから8月13日に孝明天皇の大和行幸の詔が出された。大和行幸の目的は孝明天皇が大和にある初代・神武天皇の陵に参拝し攘夷親征を誓うと言うものであった。余談であるが神武天皇を祀る橿原神宮へはグランソール奈良から約20㎞、目と鼻の先程の距離でしかない。ついでに訪ねてみるのも良い。資料によるとこれを機に吉村虎太郎は藤本鉄石(備前)、松本奎堂(三河)、中山忠光(公卿)らとともに天誅組を発足させた。8月14日に京都を発ち、大阪・河内を経て大和に入った。17日には五條代官所を襲撃して代官(鈴木源内)を殺害し、代官所支配地の朝廷直領化、年貢半減などを布告した。天誅組には土佐、久留米、鳥取などの脱藩士が多かったが河内の庄屋層が加わり、京都政変(文久の政変)「8月18日、尊王攘夷派に反対の中川宮(青蓮院宮)朝彦親王を中心とする公武合体派の公卿たちが会津藩、薩摩藩と組んで長州藩を主体とする攘夷派を中央政界から一掃したクーデター」が伝えられると十津川郷士の動員をはかった。26日には高取城攻撃をめざしたが失敗した。この失敗は十津川郷士の離反を招き、天誅組は敗走を続け、9月24日、鷲家口の激戦で壊滅した。


<天誅組遺跡:文久三年九月二十七日、天誅組主将中山忠光卿らの安否を気づかい、木津川より山越えをしてここまでたどり着いた総裁吉村寅太郎は、大岩(寅太郎原えい処)の下流約三十メートル左岸の山際にあった薪小屋に潜伏休憩中に発見密告され、藤堂勢金屋健吉の手の銃弾にて無念の最期を遂げた>

 

 

<天誅組遺跡としての吉村虎太郎原瘞処>


<勇敢に戦って散った若い命に思いを馳せ、世の安寧を願った
碑であろう。原瘞処の脇にひっそりと建つ。註:吉村虎太郎>

 

 

 

 

 

中山忠光ら七名は鷲家口での激戦から長州へと逃れた。中山忠光卿の甥にあたる祐宮(さちのみや)が長州により擁立され明治天皇に即位になられる。また、忠光の曾孫の一人が満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟、溥傑に嫁いだ三条家出身の浩である。余談となったが天誅組は挙兵から壊滅まで僅かに40日と言われその間の動向は複雑である。奇しくも若い義士たちは激しく燃えて鷲家口に散った。その英霊は靖国神社に合祀されている。

<清らかな高見川のサラサラの流れは訪れた者の心を癒す>

 

 

 

気軽に健康診断を済ませて当地を訪ね、動乱の世に日本の未来を信じて散った当時の若者たちへ思いを馳せてみるのもよい。ほんの150年ほどの昔でしかない。


<なお、「悠久の歴史を訪ねて 歴史とロマンの町  菟田野」も合わせてご参照下さい>

 

グランソールグループ ユーメディクス(株) 免疫細胞治療研究開発部 部長 松尾良信

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