歴史とロマンの町 - 菟田野
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歴史とロマンの町 - 菟田野

<歴史を育む町 菟田野>
古事記、日本書紀に記載が散見される宇陀・菟田野、奈良県宇陀郡菟田野町古市場(平成18年1月1日、市町村合併により宇陀市菟田野区となる)、地名から想像するにこの辺りは古くから多くの人が行き交い、市が立ち、賑わいを見せていたのであろう。伊勢本街道を行き交ういにしえの人々の賑わいが今に偲ばれる。


<現在は宇陀市菟田野区古市場>

 

 



水分神社境内
 そこにはひときわ目をひく朱塗りの社、水分神社(みくまりじんじゃ)がある。農耕の源である水利を司る五穀豊穣の神として崇められている。1320年(元応2年)の建立で国宝である。天水分神(あめのみくまりのかみ)、速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)が奉られている。
頼朝杉2代目
境内には樹齢数百年といわれる大きな杉の木は「頼朝杉」と呼ばれ、源頼朝がそのむかし身を寄せていた時に植えた杉の木の今は2代目と言われる。


源義経の母常盤御前の腰掛け石

 水分神社から約1.5km程東へ向い、松井天神社バス停近くから左へ入り100m程行くと、右手にぽつんと、「常盤御前の腰掛け石」が置かれている。記録には『平治の乱(1159年12月26日)で源氏の棟梁左馬頭(さまノかみ)源義朝(みなもとノよしとも)が平清盛に敗れた為、翌年2月に幼い牛若を胸に抱いた常盤御前が、今若、乙若の手を引いて、伯父の住んでいた大和ノ国、宇陀郡(うだごおり)竜門(りゅうもん)に身を隠し、更に、竜門から菟田野の下芳野(しもほうの)へ逃げ延びる時、疲れ果て、腰を掛けた。』と記載されている。  頼朝が宇陀・菟田野の地に身を寄せたのは母こそ違え弟の義経との関わりがあったのであろうか。  尚、立札には『源義朝の妻常盤御前には、今若、乙若、牛若(後の義経)という三人の子供がいました。義朝が平治の乱に敗れ、常盤御前は三児を連れ吉野から下芳野ににげのびた時、岸岡の家に足を留めて隠れていたことがありました。その際に腰掛けたと伝えられています。』 (菟田野町観光協会) と示されている。


芳野川に沿って咲くさくら
水分神社の近くには春には隠れたさくらの名所があり、歴史に花を添える。 また、水分神社から国道166号線を道なりに約3km程東に進み、400m程右手に行くとこれも朱に塗られた桜實神社があり、境内にある杉の巨木、国指定天然記念物「八つ房杉」は、さらにその歴史を遡り、神武天皇が東征の折、 大和平定のため宇陀の高城に陣を張った際に植えられたものと伝えられる。詳しくは専門の書に委ねるが、今も宮中に伝えられる久米歌に「莵田の高城に鴫罠(しぎなわ)張る わが待つや 鴫はさわらず ・・・」との記載がある。その大きさもさながら普通の杉とは異なり少しばかり紅色を帯びて人々の目を引く。推定樹齢二千年とも言われ、9mにも及ぶ大きな幹周り、そして14mと言われる樹高。

桜實神社
 国道166号線から「桜實神社」へ入って来た時、神社の手前に北へ辿る道標に沿って細い道があり、そこを登ると、木立の中にある「神武天皇東征、菟田の高城」へ至る。なお、「古事記」によると、神武天皇東征時、八咫烏に導かれ、熊野から大和国へ進軍した皇軍が、ここで休息をするために築いた我が国最古の城跡であると言われる。大伴と久米の軍団が、宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を討ち取った時にうたわれ、久米歌が伝える歴史のひとこまである。

<境内の八つ房杉>

八咫烏神社
菟田野から榛原へ向かう途上には八咫烏を奉るその名の如く八咫烏神社がまた、悠久の歴史を今に伝える。

<県道31号高塚バス停より鳥居をくぐって100m程進む>


八咫烏神社境内のサッカーの守神・・・?
 武角身命(建角身命:たけつのみのみこと)を祭神祀とする八咫烏神社は「続日本紀(しょくにほんき)に慶雲2年(705年)9月、八咫烏の社を大倭国宇太郡において祭らせたことがみえ、これが当社の創祀となっています。江戸時代(文政年間・1818~1830)には、これまで石神殿であったものが春日造りの社殿となりました。その後、紀元二千六百年を記念して社域を拡張・整備し、現在に至っています。
『古事記』、『日本書紀』によると神武天皇が熊野から大和へと入ろうとしたときに道案内し、重要な役割を務めたのが八咫烏(武角身命の化身)です。八咫烏は、中国の陽鳥としての考え方が影響しているようです。八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていたと思われますが、8世紀以降、山城の賀茂県主(かものあがたぬし)が有力となってからは、賀茂氏が祖とする武角身命が八咫烏となったようです。(八咫烏神社 榛原町教育委員会

中将姫ゆかりの尼寺・青蓮寺
宇賀志川の源流に架かる擬宝珠の小さな無常橋を渡り、日張山(標高595m)の杉の木立を縫うように参道を登って苔生した石段を上がると、静寂なたたずまいを見せるのが浄土宗の尼寺、青蓮寺(せいれんじ)である。760年、右大臣藤原豊成の娘、16才の中将姫が継母・照夜ノ前の讒言によって日張山に捨てられ、哀れに思った家臣の松井嘉藤太春時とその妻・静野に保護され、ここで草庵を結んだと言われる。ここに閑居し6年6ケ月の念仏練業の生活を送ったとされる。後に父と再会を果たしたことから「再会寺」とも呼ばれる世阿弥の謡曲「雲雀山」の舞台ともなり、中将姫の画像や彫像、曼陀羅図などがある。 境内鐘楼の横にはひっそりと「松井嘉藤太春時」と妻「静野」の墓があるが注意しながらみないと見落とすかも知れない。中将姫は父豊成がこの地に狩りに来たとき助けられ、奈良の都へ帰るが、菩提の志止みがたく遂に「当麻寺」へ入り出家剃髪した。その後27才の夏に、再び「日張山」へ登り、一宇の堂を建立し、自らの影像と嘉藤太夫妻の形像を刻み安置して、ひばり山「青蓮寺」と名づけたとされる。永く尼主の道場とされた由緒ある山寺である。境内にはまた、中将姫手植えの梅の巨老木が歴史を今に伝える。

「なかなかに 山のおくこそ すみよけれ くさ木は人のさがを言わねば」

なお、今も処方される漢方薬・中将湯は中将姫伝説に由来し、菟田野は日本で最初に薬が処方された土地としてもその歴史を今に伝えている。

<青蓮寺本堂へと進む>


<松井嘉藤太春時と妻、静野の墓>


<中将姫お手植えの梅の木は今に歴史を伝える>

 「天平19年(747年)、藤原鎌足の曾孫である藤原豊成とその妻、紫の前との間に待望の女の子が生まれ、中将姫と名づけられました。しかし、姫が5歳の時母が亡くなり父は後妻を迎えましたが継母は姫を憎み、ついには殺害を企てるようになりました。姫が14歳の時、継母は家臣に中将姫を殺すように命じましたが、心優しい姫を殺せなかった家臣は、ひばり山・青蓮寺に姫を隠しました。翌年、父に発見され都に連れ戻された姫は、世上の栄華を望まず、当麻寺に入って仏の道に仕えることを決心しました。この中将姫がひばり山で最初に身を寄せたのが、前述の藤村家といわれ、それを契機に交流が始まり、婦人病に良く効く秘薬を藤村家に伝え、それが藤村家家伝の薬・中将湯になったということです。」 <某製薬会社のホームページより

宇陀三将
 その昔、大和国宇陀には、秋山・沢・芳野の「和州宇陀三人衆」と称される武家があった。秋山氏は、国造が貢進したという伊勢神宮領大和国宇陀神戸の神戸社の神主家で同神宮の被官であったと言われる。神戸社が春日社の末社になると秋山氏は興福寺被官にもなったとされる。宇陀秋山城に拠った。その氏祖は甲斐源氏の秋山光朝という。沢氏は、宇陀郡沢に拠った国人で、出自は藤原氏とされ、また、芳野氏は宇陀郡東郷の芳野城に拠った国人で、興福寺の配下にあったことがうかがえるが出自は不詳である。秋山・沢・芳野の三氏は『勢衆四家記』では、「和州宇陀三人衆」として伊勢国司北畠氏の与力、のちには被官になったとされる。南北朝時代北畠氏は南朝方であったことはいうまでもないが、宇陀三将のうち秋山・沢の両氏が南朝方であったことは『太平記』の「神南合戦」に見ることができるが芳野氏の名は見えない。
 永禄二年(1559)松永久秀が大和に侵入し、翌年は宇陀へその支配を及ぼし、摂津の軍勢を率いて沢城を攻めた。そして話合によって城を占拠し、久秀の部将高山飛騨守が入城した。キリシタン大名として名高い高山右近の父にあたる人物である。同年、沢氏は東方に進出して北畠氏との関係を強化し、北畠氏が天正四年(1576)に滅亡するまで同氏被官として存続したようである。なお宇陀室生の女人高野と名高い室生寺には北畠親房の墓を見ることができる。



     <室生寺五重塔>

高山右近と宇陀・菟田野
 戦国時代、織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将、高山右近はその幼少期を宇陀の地、現榛原区沢地区で過ごした。松永久秀に仕えこの地へ移り12歳のとき父、高山飛騨守(ダリヨ)の勧めで洗礼を受けジュストの洗礼名を受けている。沢地区は榛原と菟田野の境に位置し山間ののどかな地区であるがその地に今も土地の人たちによって守られている「高山右近の碑」があり、やはり歴史を今に伝えている。毎年、5月5日には土地の人たちを中心に供養が行われる(グランソール奈良 山本看護師長 談)。
<緩やかな坂を登ると沢城址が今に歴史を伝えている>

<高山右近の碑:小学校へ通う子供達のスクールバス待合所になっており毎朝の「おはようございまーす」の挨拶は心地よい>



 

 天正6年(1578年)、右近の人生を変える出来事が起きる。右近が与力として従っていた荒木村重が主君織田信長に謀反を企てたのである。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようとしたがならなかった。「右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員オルガンティノ神父に助言を求めた。信長に降るのが正義であるが、神父はよく祈って決断せよとアドバイスした。高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとした。そこで信長の考えた作戦は右近を苦悩させる。右近が金や地位では動かないことを知っていた信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると言ってきたのである。」と、歴史の書は述べている。2006年進行中のNHKテレビ大河ドラマ「功名が辻」では山内一豊が荒木村重の説得に当たったとされるが史実では右近による仲裁が大きかったようだ。「山崎の戦」、「小牧・長久手の戦」にも参戦し功名を上げた。右近は人徳の人としても知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。しかし、秀吉によるキリシタン追放令を受け、内藤如安(洗礼名 ジョアン)らと共にマニラに送られ、当時62歳であった右近は病を得て翌年1614年帰らぬ人となった。


<長谷寺五重塔>

<牡丹園より大悲閣をのぞむ>
山辺の道を訪ねて長谷寺を経て桜井へ
  伊勢本街道に沿った当時の家並みを垣間見ながら菟田野から榛原へ、そして牡丹寺としても名高い長谷寺へは近鉄大阪線で一駅。春のさくらもまた筆舌に尽くしがたい。四季折々の花は人の心を和ませてくれる。秋のもみじもしかりである。

「いくたびも 参る心は初瀬寺 山も誓いも深き谷川」

 少し下ると桜井へと続く。菟田野から榛原を経ずに直接桜井へも可能である。詳細は歴史書に委ねるが「山辺の道」は7世紀はじめに造られたわが国最初のいわゆる国道で、桜井から天理を経て奈良に及ぶ約26kmの古道である。古代の歴史を訪ねてみるにふさわしい。万葉人も歩いた道で、50以上の万葉歌碑が点在する。とりわけ桜井辺りは、飛鳥以前の文化が栄えたところで、その眺望を楽しむことができるとともに、悠久の歴史を今に伝える。古代へのロマンを感じずにはいられない。大和の国の行方を探りながら歩いてみるのも良い。それぞれ第10代崇神天皇陵、第12代景行天皇陵、蘇我氏によって滅ぼされたとされるが一大勢力を誇った物部氏の武器庫であったとされる石上神宮(いそのかみ)を訪ねてみればいにしえの都へと導かれる。

<境内にさく牡丹、5月はじめが見頃>

 


 

 



飛鳥の里
 「山辺の道」とともに菟田野近郊には柿本人麻呂、山部赤人など数々の万葉の人々を偲ぶことができる。そして桜井まで足を伸ばせば、すぐそこはもう大和の国の中心「飛鳥」である。聖徳太子生誕の地、また一大勢力を誇った蘇我氏。詳細は数々の歴史書に名高い。四季折々に歴史が偲ばれる。高松塚、キトラなどの古墳を訪ねてみるのもよい。
   

 <石舞台:蘇我馬子の墳墓であったとされる>

 


<万葉集に名高い:柿本人麻呂>

気軽に健康チェックを兼ねていにしえの歴史を訪ねてみるのもよい。

<なお、「歴史探訪 菟田野と近郊」も合わせてご参照下さい>


グランソールグループ ユーメディクス(株) 免疫細胞治療研究開発部 部長 松尾良信

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